※この記事はセンシティブシリアスな内容を含みます。
自分が悪い事は百も承知です。
自分への戒めのために、そして他者への注意喚起として書きたいと思います。

【出発の朝】

鴻「いや~ ええお客さんと出会えてよかったわ!」

私「こちらこそ!」

本心で想った事を伝えた。

そんな鴻本さんとの挨拶から朝が始まる。

本当に優しい人だ。

本日は鶴林寺と太龍寺と二大難所を攻略する日である。

雨も小降りになっていて歩く気でいた。

そして何と鶴林寺の登山口まで送ってくださるというサービスもあり助かる。

いざ、出陣!

靴を変え、コンディションは悪くない。

この難所を乗り切れば後は足もよくなって行くと思っていた。

いざ鶴林寺への道を登って行くと、同じ難所でも焼山寺との違いが感じられた。

焼山寺を最大風速で例えれば

瞬間最大風速90

とすると

鶴林寺は60

そんな感じだ。

が、しかし焼山寺をスポーツで言えば「試合」という印象で、鶴林寺は「辛い合宿」という感じだった。

焼山寺=登りの勾配がキツいしんどい。
鶴林寺=ジワジワずっと地味にしんどいが続く。

こんな感じだった。

そして他ブログさんで色々と紹介されているが、水補給ポイントが無い。
何十キロも無い。

どれぐらい無いかというとコレを飲みたくなるぐらいには無い。↓

きっと季節によっては水を買うのを忘れてココで水を飲んで思いっきりお腹壊した人がいたんだろうな~とか考えた。

というのも途中で出現する

トイレトイレ詐欺

行っても行ってもトイレは無く、結局どこかのトイレに辿り着いたときは、一体あれはどこのトイレを指していたんだろう?と疑問になった。

ふーふーいいながら鶴林寺も太龍寺も突破。

※相変わらずしんどいときは写真を撮ってないスンマセン。

【お遍路と人生の本質】

太龍寺にあった張り紙

とても印象に残り

そして心を打たれた言葉

これは人生にも全く言える事だろうと想う。

お遍路をやっていると、大なり小なり
「通して何日で回るんだ」
「次はどこまで行くんだ」
「今は何日目でここまで来てるんだ」

「歩けない=情けないやつ」

そんな無意識が心を支配してくるのは誰もが一度は感じた事があるのではないだろうか?

競争でも何でもない。
自分のお遍路を歩む。

この本質を忘れがちになってしまうのだ。

しみじみと眺め、この後起きる事件も相まってさらに強く想う事となる。

【遭難】

そして

運命の分かれ道。

太龍寺から最後は下山するのだが、その時に分岐点が現れる。

「遭難」とは小さな思い込みから始まる。

この言葉は沢山聞いていたはずなのに…

この時は雨が降り出していた。

雨具を着て歩き始める。

ココで私は思い込みと怠惰という二つの罪を犯した。

まずは雨が降っているときに地図を出すと濡れて使い物にならなくなると思い見なかった事。

そして事前に調べていた記憶では「いわや道」は高所恐怖症には辛い道のりだという記事が頭にあった。
それプラス北地へ出る道を歩いた人の記事を幾つか記憶していた。
そして私は高所恐怖症だ。
どちらに行っても遍路道だから大丈夫だろう!という楽観もあった。

それが大間違い

私は「北地」の方へ進んでいく。

途中まではお遍路の山道でよく見る指標というのか目印の象が地面に埋め込まれているのだ。(お遍路道はココですよという印)

この「丁」とは距離の事で、1丁約109m。

ちなみに山の1kmっていうのは普通の道の何倍も長く感じるものだ。
実際同じ1kmでもたどり着ける時間は普通の道とは何倍も違う。

たまに現れる石碑、そして木に結んであるリボン。(こちらも遍路目印)

なので疑いたくない意識の方が勝ってしまう。

が、やたら真っ暗であり、倒木が頻繁に現れ道を塞いでいる。

写真でみると明るいが実際はもっと真っ暗に感じるし、もっと道幅は狭い。
両足で歩くギリギリの幅しかなく、横は崖のようになっているのだ。

人間とは不思議で自動思考として、希望的観測で否定したくない方を考えてしまう。

そして、引き返すということを倍の労力と時間をかけて決断するということは中々できないものである。

冷静に考えればすぐ引き返せばいいのだが、そのときは既に遭難する思考回路に呑まれているのだ。

そして徐々に消えていく石碑の道しるべ。

道があっただろうところは崩れている。

進めば進ほど獣道で藪漕ぎしないと進めない背の高い植物たちが出現する。

あれ?これもう違うな。引き返そう!

そう思った瞬間

ズザザザザザザザ!!



なんと一段下に滑落してしまったのだ…。

戻ろうにも登れる斜面でない。

もう下るしかないのだ。

心細さが込み上げてきて、言い知れない強烈な不安が心を支配する。

道があったのだろうほんの少しの形跡を辿り進んでいく。

よく観察してみると、土砂崩れがあったのだろう中に遍路の石碑が散乱し埋まってる姿を見つけてしまう。

このまま、ギリギリ道があったであろう形跡が続いててくれるならなんとか下山できるかもしれない。

そう思い進み続けるが不安は当たる。

道がない!

そう、もう進める道がないのだ。

滑落する勢いで下っていくか、命綱を木に結んで降りるか、危険とわかっている場所を次の歩けそうな場所まで何とか辿り着くか。
どちらにしろ一瞬でも気を抜いたら踏み外して滑落するのは容易に想像がついた。

半泣き

我ながら情けない声出してんなーとは思うが、まさにこの時はこんな心境だった。

(心の声)

コレはもう遭難したことを認めよう。
そして一歩間違ったら死ぬことももうわかっているじゃないか。
踏み外して怪我や打ち所が悪ければ終わり。
そしてイザとなったら助けを求める事、ヘリでも何でも呼ぶ覚悟を持つこと。
死なないこと。
でもな…
地元の人に迷惑をかけたくないのは本心で思ってる事だしな…
なんて浅はかだったんだ自分は…。

正直ここからの記憶はあまりない。

スマホの電源を節約しながらどの位置にいるかGPSで見つつ

ただガムシャラに日がかろうじて射しているうちに下山することだけを考えた。

そしてほうほうのていで北地へと出た。

時計を見たら4時間半かけて下山したらしいことはわかった。

そして命からがら宿へ辿り着いた。

宿に着いてまず一番に女将さんにその事実を報告した。

女将「男の人がそんだけ言うやったらよほどやね!」

と、何ともあっけらかんとしたご返答にも気持ちは助けられた。

一番には、地元の人へ迷惑をかけずに済んだ事に安堵した。

と同時に、こういった気の緩みが悲劇を招くし一歩間違えたら色々な人に迷惑をかける羽目になっていたのだと改めて痛感&再認識をした。

そして、宿の夜へと舞台は移っていくのだった…。

続く。

「そ う な ん?!  遭難です。の巻」に4件のコメントがあります
  1. 修行なのか冒険なのかわからない行脚ですね。クールに言ってしまうと遭難で「死」が意識上に上がってきと言う事は「生」も同等同量意識されたと言う事だからお遍路さんに挑戦した意義は大いにあったって事。

    1. まさか尊敬してる師からそんなにありがたいお言葉を頂けるとは思っておらず、狂喜乱舞しております。
      しかしながら、今まで自分の自問自答の中で、全く視野になかった自問自答が生まれる事に驚いています。
      どうか、見守ってください。
      私が無事に帰るか、安達氏が死ぬか、それはもう時の運です、

  2. ちなみに、今回の危機の時にスマホのナビはどう誘導してくれるのでしょうか スマホなびは頼りになったのでしょうか

    1. googleマップが反応するほどの電波はありませんでした。。汗
      現在位置だけはかろうじて反応していましたが、ただの山の中で道は表示されません。苦笑

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